トランス差別に反対する為であっても、「身体的性別」のような概念を用いるのはあまり好ましく思いません。体そのものに性別などなく、身体的特徴に基づく割り振りがそもそも既に社会的なもので、かつ権力構造の現れる場面だというのが、重要なところでしょうから。(2020年11月16日)
(2024年8月20日 06:36:22)
http://archive.today/2020.11.17-113057/https://twitter.com/snartasa/status/1328297085163094017 (2024年8月20日 06:36:22)
》 トランス差別に反対する為であっても、「身体的性別」のような概念を用いるのはあまり好ましく思いません。体そのものに性別などなく、身体的特徴に基づく割り振りがそもそも既に社会的なもので、かつ権力構造の現れる場面だというのが、重要なところでしょうから。 / そこに乗っかって「身体男性」「身体女性」などと呼んでいると、既に差別構造に片足を乗せていることになるのではないかと思います。少なくとも私は自分の体を「身体男性」などとは言いません。私の体を「男性」に分類した偏った社会構造があると述べるだけです。 / ついでに言うなら、この分類はシスノーマティヴィティだけでなく、ヘテロノーマティヴィティ、性差別、男女二元論、生物学的決定論全てと手を取り合い、「女性」と分類された人々を「効率良く産み育てる存在」へと押し込める大きなシステムの一部を成しているのではないかと、私は思っています。/ だからトランスフォビアへの反抗と性差別への反抗は矛盾するどころか、本来ならば(ホモフォビアへの反抗と共に)手を取り合わないと遂行出来ないものなのではないかと。 (2024年8月20日 06:37:39)
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